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ローマ

コロッセオColosseo



古代ローマを代表する驚異の建築物で、永遠の都ローマの世界におけるシンボルである円形闘技場コロッセオは古代ローマ人が、剣闘士や猛獣の格闘などの見物用に建設した建築物の中で最大の大きさを持つものです。西暦72-80年の8年間をかけて、フラヴィア家の命により、ネロ帝のつくった黄金宮殿(ドムス・アウレア)の人口湖の上に建設されたものであり、10万㎥のトラヴェルティーノ石、鉄30トンを用いてつくられ、オープニングの際は猛獣の殺し合いなどの見世物が100日間も続いて祝われました。一度に観客6万名を収容可能で、見物客は道路と同じ高さの通し番号のついた80ものアーチから入り、丸一日過ごした後にはわずか20分で全員が退場できる構造になっていました。
コロッセオでは午前中は猛獣狩り、正午に有罪者処刑、午後は剣闘士の格闘が行われ、観客は暑い日には、皇帝艦隊乗組員が操る240枚の帆でつくられる覆いで太陽の光から護られていました。闘技場中心部地下は、猛獣の檻や見世物の舞台装置や機械類の置き場となり地下と闘技場の間には板が敷かれ、血を吸わせるための砂がまかれていました。コロッセオの通路を進んでいくと、今日でも、不思議な魅力にとりつかれずにはいられません。やや矛盾しますが、一方では、コロッセオは古代ローマ文明の建築の最高峰を代表する一方で、他方では、見世物の残虐性の中に同文明の最大の暗黒部分も現れているからです。
中世になるとコロッセオは要塞と変貌し、続いて、建設資材の掘り出し場として使われました。トラヴェルティーノ角材をつないでいた金属製留め金は取り外され、コロッセオのいたるところに残された穴の存在が確認されます。
アドバイス:入場のための長蛇の列を避けるために、サン・グレゴリオ通りのパラティーノの丘側、あるいはティート凱旋門のそばのチケット売り場をおすすめします。

フォロ・ロマーノIl Foro Romano
フォロ・ロマーノはローマで最も重要な考古学地区であり、偉大な作家T.S.エリオットが記した「歴史的感覚」を持つということは過去に生きていた人々を現代の同世代の人々のように感じることであることに気づく上で理想的な場所です。フォロ(公共広場)は、ローマの公的生活の中心であり、パラティーノの丘とカンピードリオの丘の間に広がっていた湿地を灌漑した後、紀元前7世紀に建設されました。なお、「フォーリ・インペリアーリ」(「諸皇帝たちのフォロ」の意味)の最後の史跡となるフォカス帝の記念柱は紀元7世紀の建立ですのでちょうど1200年後となります。
まさにここフォロ・ロマーノに、古代ローマの政治、宗教、そして商業活動が集中していたのでした。当時どのような姿を呈していたかを理解するには想像力を働かせる必要があります。沢山の建物の建設が最高潮に達し、ローマ帝国全地域から来た人々が大勢溢れており、今日の我々のように、当時の人々も、羊飼いであった人々が世界の支配者となるという信じがたい冒険の象徴であるこの地を見るためにやってきたことでしょう。



古代ローマ人はその建造物を通し人々に畏敬と恐れの混在した効果を与えるため、建造物には重要な宣伝広報的機能を託していました。
商談や裁判の場として使われたバシリカ、元老院が置かれ政治の中心であったクーリア。そして多くの神殿、凱旋門、モニュメント、彫像。「聖なる道」が真ん中を走り、その道を宗教行列や凱旋行進が通っていったのでした。時の経過につれ、フォロ・ロマーノの反対側に、フォーリ・インペリアーリが建設されました。一方では人口増加で手狭になりより広いスペースを調達する必要があったため、他方では帝国の偉大さをさらに誇示するためでした。
その後の時代においては、衰退がこの地域を覆い、見捨てられた地域は建設資材の掘り出し場として使われるようになりました。18世紀になり最初の考古学的発掘が始まりましたが、埋もれていた当時の史跡の大部分は家畜の群れや羊の群により牧草地として使われていたのでした。

カンピドーリオ広場Piazza del Campidoglio
古代ローマで最重要な神殿の本拠地であり「世界の都」のローマの象徴であるカンピドーリオは隣接する世界最古のカピトリーニ美術館とともにローマの生活において常に重要な位置づけを維持し、12世紀には自治国家コムーネの中心拠点となりました。



ヨーロッパで最も華麗な広場とされるカンピドーリオ広場は、ミケランジェロにより設計されており、彼こそが、あの素晴しい石段のある坂道のアプローチ、そしてすでにあった建物の新ファサード(中心にあるセナトリオ宮、右にあるコンセルバトリ宮)を考案しさらに左側に新宮パラッゾ・ヌオーヴォを加えることで、訪れる人に調和と均衡の感動を与える台形の広場を構築したのでした。
この広場は、古代ローマの名残り、終焉した歴史的瞬間、すなわち過去の場所に対しては背を向けており、権力の新本拠地、当時の政権の本拠地であるバチカンに対峙する方向を向いており、ローマの歴史の変容を明確に示しています。
マルクス・アウレリウス帝のブロンズ騎馬像のオリジナルは脇の美術館内に所蔵さていますが、そのコピーは広場中心に置かれています。この像は騎馬上の人物がキリスト教を公認したコスタンティヌス帝と間違われたため、その後も破壊を免れていたのでした。

パンテオンPantheon



あらゆる世代を通し最も感銘を与える建築物の傑作の一つは紀元2世紀に「あらゆる神々」に捧げる神殿としてハドリアヌス帝により建立されたパンテオンでしょう。
608年に東ローマ帝国皇帝のフォカス帝が、時の法王ボニファティウス4世に献上したところ、同法王は聖母マリアとすべての殉教者に捧げる教会に変容させたため、古代ローマ建築物の中で保存状態の最もより建物として現在にまで残っています。建立当時には、敷地は現在より低く、玄関は数段の階段であがるようになっていました。
その後、何世紀にもわたり、パンテオンの周りで、パンテオンを包括しそれをローマの中心に置くことでローマが発展していったその波乱万丈のプロセスについてはどれほど驚いても足りません。1800年前に建立されたこの建築物の前で、待ち合わせの約束をすることは、地元の人にとっても、旅行者にとっても、ごく自然なことで昔からここを出会いの場所としてきた何世代も前の人々の存在を極めて自然に感じとることができましょう。パンテオンは外側からは、花崗岩の円柱のあるポルティコにより、ギリシャ神殿のファサードのようにみえます。しかし、内部は古代コンクリートでつくられた巨大な丸い円蓋(クーポラ)によって、古代ローマ建築空間の完璧の極を表しています。ハドリアヌス帝はギリシャ文明を敬愛しローマをその後継者と見なしていました。そのため、ここではギリシャを経てローマに到達する知的な歩みを示唆しているかのようです。
内部はあたかも円筒の中に球が配置された構造となっており、現在に至るまでに古代コンクリートで建てられたクーポラとして最大規模のものであり、その直径と高さは両者とも43.3メートルと同じです。唯一の光源としてクーポラの頂点に円窓が開けられており、床の真ん中にある小穴が、雨が降ると水がここまでくることを示しています。パンテオンはまた、近代イタリアを統一したサヴォイア王朝の霊廟であり、ラファエッロの墓も中にあります。

ナヴォーナ広場Piazza Navona
ローマ・バロック時代の華やかさが強く表れた広場、ナヴォーナ広場は、ローマの最も古い時代の「顔」が、現代生活で人々に愛され親しまれる場所と変貌する素晴しい事例の一つといえましょう。実際、この広場の細長い四角形の形は紀元1世紀にドミティアヌス帝の命で造られた競技場構造を引き写したものなのです。この競技場ではスポーツ競技が行われており、その遺跡は近くのトル・サングイニーニャ広場Piazza di Tor Sanguignaの現在の道路下で見ることができます。



ナヴォーナ広場が、ベルニーニによる「四大河の噴水」、ライバルであったボッロミーニ等によるサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会la Chiesa di Sant’Agnese in Agone、パンフィーリ宮殿などを持つ現在の形をとるようになったのはバロック時代のことです。
広場中央にある噴水の巨人は、1651年に完成したものでこの時代に知られていた4大陸の大河を表現しています。すなわち、ラプラタ川、ドナウ川、ガンジス川、ナイル川です。特にナイル川は(当時はまだ川源が発見されていなかったため)その起源の神秘性を示すために、顔が隠されていることで知られています。
植物や動物の像は水の動きや響きとともに、噴水のトラヴェルティーノ岩に躍動感を与えています。ローマにある13本のエジプトオベリスクのうちの1本を掲げ、またパンフィーリ法王の紋章により飾られています。噴水中心の空洞部分は独創的なアイデアであり、見物客がこの噴水を見ながら通り過ぎても広場の全体的広がりを見失わないように設計されています。
過去においては、ナヴォーナ広場では、市場や祭が開催されるとともに、夏には貴族の山車行進の際は広場の一部に水がはられました。現在でもクリスマス市が立ち、大道芸人で賑わい、広場を囲むカフェはどれもいつでも一杯です。噴水の端に腰をかけると、ローマが我々をとりこにする理由の一つは、芸術と歴史に満ちた空間と我々が今いる空間が継続し同一であることが理解できます。
ローマを遠くから眺めて賛美する必要はありません。いいえ、ローマを本当に自分のものと感じるためには、是非近くからローマを知ってください。

トレヴイの泉Fontana di Trevi
トレヴィの泉の並外れた魅力は、この泉は少しずつ姿を現すのではない点にあるといえましょう。実際この泉は細い路地のみでしか通じていないため、泉に接近していることは水の音で知らされますが、その後突然、目の前に大きな泉が現れるのです。舞台で突然幕が上るように、このあっと驚く効果は色あせることがありません。
18世紀に建築家ニコラ・サルヴィにより設計され、30年間かけて実現されたこの泉は生命、健康、変化の象徴としての水の饗宴そのものです。



この泉のある場所は「アクア・ヴェルジネ」(処女の泉)という紀元前19年につくられた古代水道の水路終点を示しており、噴水前面上部にある浮き彫りの中にその古代水道の物語が語られています。トレヴィの泉の魅力は、泉の巨大な大きさと泉の置かれている広場の小ささとの対比によっても加速されています。また、泉が建築物を背にして建てられているため、通常の噴水のように泉の回りを一周することもできなくなっています。
噴水中心にある海洋ネプチューンは30種類の植物の描かれた岩礁の間から、海馬とトリトン神に引かれる馬車に乗って水上に現れるかのようにみえます。彫刻と建築そして自然が一体となった稀有の組み合わせであり、後ろの建物が岩壁と響き渡る水と溶け合うような光景をイメージすることができます。
この永遠の都をまた訪れることのできるようにとコインを投げ入れることをお忘れなく。噴水に背をむけ、左肩から右手でコインを噴水に投げるのが「正確な流儀」です。

スペイン広場Piazza di Spagna



ローマ歴史的地区の最も華麗でハイグレードな地域の中心にあるスペイン広場は、いつの時代も地元の人々だけでなく、旅行者、そして外国から訪れる芸術家たちにとっても出会いの場所となっていました。特に、外国からの芸術家たちはかってこの近くに多数あったホテルや旅籠宿などに滞在していたのでした。スペイン広場の有名な大階段は1700年、フランチェスコ・デ・サンクティスの設計によるもので、大使館を置きスペイン人が長い間支配していたこの広場と、ルネサンス式教会のトリニタ・デイ・モンティ教会を含む丘の上の「フランス支配地区」との間をいかに結ぶかという「多年の懸案」をかくも見事に美しく解決したのでした。
この138段の大階段は、テラス部分や曲線部分の巧みな構成でダイナミックな動きがあり、あたかも下の広場に落下する滝のような効果を生み出しています。春には色彩豊かなツツジの鉢で埋められ、一流ファッションショーの舞台ともなります。「舟の噴水」はジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父親であるピエトロ・ベルニーニの作品であり、浅い水槽に半分沈みかかった形の小舟の噴水です。この場所に水を補給する水道の水圧が低いために水のほとばしりやしぶきを上げることのできない問題を巧みに解決しています。
この広場からは放射線状に、国際ファッションブランドのブティックが立ち並ぶショッピングストリートがいくつも走っていますが、中でもコンドッティ通りVia Concotti は世界で最もエレガントな通りとして際立っています。
午後遅くには、市内中心部の名所に停車するATAC110の二階建て観光バスでパノラミックツアーを経験するのもいいでしょう。ローマの永遠性の本質、すなわち、様々な時代に建設されたモニュメントや建造物の共存しあう都市空間の中で、過去と現在の歴史的な継続性を体感する上で格好の手段となりましょう。

ヴァティカン公国Città del Vaticano



ヴァティカン公国は1929年のラテラン条約により独立国家となり、サン・ピエトロ(聖ペトロ)の殉教の地でまた墓のある場所に位置します。最初にキリスト教を公認したコスタンティヌス帝が紀元4世紀にこの地に聖堂を建立しましたが、それはその後破壊され、1506年から1614年のおよそ120年もの年月をかけて新しい寺院が再建されるに至りました。
総面積22000㎡という世界最大規模の新しい寺院の設計にあたっては、ブラマンテ、ミケランジェロ、マンデルノなどその時代最高峰の建築家が参画しました。サン・ピエトロ寺院はその壮大な建築空間により人々を圧倒させてやみません。
サン・ピエトロ寺院の広大さ、そしてその装飾や所蔵芸術作品の壮麗さを実際に見学する人が得るインパクトには、どのような写真も太刀打ちできないでしょう。建設段階における、ギリシャ式十字架かラテン式十字架に関する二者択一の論議は、最終的には後者となりますが、あまりにも紆余曲折したため、ミケランジェロによる壮麗なクーポラ(高さ136m直径42m)が出現する前に教会身廊のかなりの部分の建設が進んでしまうところまでいかざるを得ませんでした。サン・ピエトロにある宝物品の中には、ミケランジェロが24歳の際に大理石の一つの塊から彫り、生涯唯一自筆の署名をいれた彫刻となる有名な「ピエタ」、ベルニーニがパンテオンから取り出したブロンズを用いてつくった傑作「ブロンズの天蓋」、そしてアルノルフォ・ディ・カンビオ作の「聖ペトロのブロンズ像」などがあります。驚くことに絵画作品はほとんどなく、ヴァティカン派モザイクがそれを補完しています。
イタリア国との国境線を示しているサン・ピエトロ広場は30万名もの人々の収容が可能で、ベルニーニ設計の柱廊で両手で迎えるかのように訪れる人をむかえています。ここでは法王と人々との直接的関係に結びつく大変重要な儀式が行われます。



ヴァティカン博物館と、何世紀にもわたる歴代法王のコレクションや委嘱作品の集大成であるその莫大な所蔵品は、展示作品の卓越性が、展示している建物の壮麗さによりさらに輝きが倍増されることを立証しています。実際、建物空間そのものを見ることが訪問の主目的となることも多いのです。 館内は一度に大勢の美術愛好者が芸術作品コレクションを機能的に見学できるように設計された環境ではありません。かっては少数エリートだけに開放されていたギャラリーや法王の居室を順々に通って見学を進めていくのです。 ヴァティカン美術館は、特にヴァティカンが世界最大のコレクションをもつ古代ギリシャや古代ローマの莫大なコレクションにはじまり、エジプト美術、エトルスク美術、そして当然のことながら、ラファエッロの間やシスティーナ礼拝堂のフレスコ画などルネッサンス美術の大傑作など、莫大なコレクションを誇っています。
そして、ヴァティカン博物館では、ローマを訪れることが、なぜ、何度訪れても、あたかもはじめてのように新しい発見ができるのかを理解できるのです。
西洋美術文化を強く特徴づけるあらゆるイメージをすべてここで見出すことができます。20年もの歳月をかけたシスティーナ礼拝堂の修復により、本来の色彩の輝きを取り戻し、ミケランジェロが天井画に描いた旧約聖書のエピソード、人類歴史上の最も劇的な瞬間を約400名の人物像で描いた「最後の審判」を心ゆくまで、そのディテールまで鑑賞することができます。同礼拝堂にはボッティチェッリ、ペルジーノ、キルランダイオなど、15世紀のフレスコ画傑作も納められています。
長蛇の列を避けるためには、見学時間を調節し、可能であれば、12時以降に見学するといいでしょう。この時間はあまり混みあわない時間ですので。

サンタンジェロ城 Castel Sant’Angelo



ヴィア・デッラ・コンチリアツィオーネVia della Conciliazioneを進むとサンタンジェロ城につきます。これはハドリアヌス帝の墓(紀元前2世紀)の遺跡の上に、中世になって建てられた法王のための要塞です。この建築物はローマ都市地域の現在と過去をつなぐ継続性を表す一例です。すなわち、古い建築物は新機能をつけ加えられて再活用され、あるいは修正を加えられることでローマの歴史の中で常に必要な役割を維持してきたのでした。 ヴァティカンに近い距離、そしてテヴェレ川右岸(西側)にある帝の霊廟という場所は、防御砦としての活用を決定的なものとし、バティカンと直結する高架の避難通路「パッセット」により、法王の住居と接続され、周囲には堀を備え、はね橋や大砲を整備していました。
過去においては、危ういところで逃げ出すことのできたベンヴェヌート・チェッリーニが著述しているように、この城は、恐ろしい牢獄の存在でも知られていました。また、オペラのトスカの悲劇的な最後にあるように、処刑の場所でもありました。同城博物館の58室もの展覧室をめぐると、この城の1800年もの歴史を発見することが可能で、そのテラスからはローマの格別素晴しい眺めが広がります。
ベルニーニ派作品の彫像の飾られた「サンタンジェロ橋」も見過ごさないでください。この橋はかってはサン・ピエトロの墓を目指して旅をしてきた巡礼者に目的地の近いことを知らせる橋でした。
テヴェレ川クルージングの船に乗りティベリーナ島で下車することをおすすめします。これによりテヴェレ川がローマの生活の中で歴史的に果たしてきた根本的な役割を思い浮かべることができるでしょう。かっては建物や庭が直接川岸に面して建っており、港や水車、釣り棚なども川岸にありました。しかし川岸近くの地域を繰り返し襲う恐ろしい洪水が続いたため、1870年以降、現在の防波壁が建設されることになり、テヴェレ川の「顔」および、テヴェレ川とローマの町との関係が大きく変わることになりました。

トラステヴェレTrastevere
トラステヴェレ地域は、生粋のローマの特色を今日もなお保存している小路や広場そして独特の色彩空間の中を散策する上でうってつけの場所です。午前中に見学した壮大栄華な世界と対比するのも興味深いものです。
古代において「テヴェレの向こう岸」という意味を持った「トラステヴェレ」はテヴェレ川右岸(西側)で最初につくられた区画(リオーネ)であり、職人、漁師、商人そして近くの港に関連した業務に携わっていた外国人などが住んでいました。この地域はまた、瀟洒なヴィッラや広大な庭園の存在でも知られており、中でもジュリアス・シーザーの庭園はことのほか重要で、ここにはクレオパトラを招聘していたといわれており、遺言で古代ローマ人民へこの庭園を残しています。



中世においてすでに、トラステヴェレでは路地や小さな広場など現在もこの地域に残っている特徴を持っていました。すなわち、統一性のある都市計画合理性からは逸脱しており、それ以前に存在していた迷路や建物に沿ってつくられているかのようです。ピエトロ・カヴァッリーニ作の13世紀のモザイクのあるサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂と、ステファノ・マデルノ作、音楽の守護神である聖チェチーリアの感銘的な彫刻のあるサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ教会は必見です。トラステヴェレでローマ・ルネッサンスの豪奢さを見つけるためにはファルネジーナ荘を訪れることをおすすめします。これは富豪銀行家アゴスティーノ・キジの郊外別荘として建てられたもので、ラファエッロ、バルダッサッレ・ペルッツィおよびセバスティアーノ・デル・ピオンボのフレスコ画を所蔵しています。
トラステヴェレには楽しい夕べを過ごすための多種多様なレストランやバール類があります。

オスティア・アンティカ遺跡Scavi di Ostia Antica



オスティア・アンティカ遺跡は、古代ローマ時代の都市のイメージを完成させ、日常生活の姿を理解する上で貴重な機会となりましょう。首都ローマにある巨大な公共建築物の史跡からはこれらの側面を理解するのはなかなか難しいからです。
紀元前4世紀ごろに、テヴェレ川の海岸側と川岸の間の要塞基地として創建されたオスティアは、その後古代ローマの海上貿易港となったためローマとは強い絆を持つようになりました。ここではローマに供給する食品や物品さらにはローマの都市発展や娯楽などに必要な品々が通過したのでした。すなわち、穀物、油、ワイン、高級大理石、サーカス用動物などが地中海各地からここに到達し、そして多くの場合はオスティアで小舟に積み替えられて、テヴェレ川を川岸の牛に引っ張られてローマ港まで川を上って行ったのでした。
保存状態のいいフォロ(公共広場)、テルメ(浴場)、神殿、そして多くの異邦人が住んでいたのに違いない住宅地域などを散策すると、オスティアを住民6万名をかかえ繁栄の絶頂期にあった都市として想像することは難しくありません。今日も活用されている劇場、60-70に及ぶ職人や商人の業種組合事務所を備えた「同業者組合」のある広場などは是非見学してください。
オスティアの存続は、ポンペイのようにある日突然中断したわけではありません。オスティアの衰退はローマの衰退と一致していますが、港が次第にテヴェレ川の運ぶ土砂に覆われていき、また洪水でテレヴェ川水路が変わりマラリア発生が深刻化したことなどによりさらに衰退が進んだのでした。オスティアはその後、実質的に住民が居住する土地とはならず、同じ場所に建築物が重ねて建てられれる現象を生まなかったために、現在を生きる我々も古代都市の様々な進展段階を昔のままに見ることができるのです。
古代オスティアの見学は周囲の素晴しい自然環境のおかげでさらに気持ちのよいものになります。これは19世紀にこの地を訪れた旅人から、古代遺跡の詩情あふれる魅惑として強く愛された風景です。時間の経過を感性に強く伝える風景をつくりだすことで、自然はあたかも人間の手が加わった部分を除外した空間を取り戻しているかのようです。
オスティア・アンティカ遺跡への交通アクセスは容易です。ローマのポルタ・サン・パオロPorta San Paolo駅発「リド・ディ・オスティアLido di Ostia」行き列車でオスティア・アンティカOsthia Antica駅下車。(ポルタ・サン・パオロ駅は地下鉄B線ピラミデ駅と隣接しています)

エウルEUR



オスティア遺跡からローマ市内へ戻る列車で、終点のポルタ・サン・パオロ駅の一つ前で下車すると、ローマの最も現代的な顔、エウルEUR発見のための散策ができます。この地域は元来1942年に予定されていたローマ世界博覧会会場として、建築と現代都市計画という当時の大議論のコンテクストの中で設計されたものです。ところが第二次世界大戦の勃発でこの博覧会は実現されず、エウルは戦後になって完成されることになりました。この区域は、ローマを南方軸に発展させるというコンセプトで、都市建築の記念碑となるべく壮大さ、都市装置の合理性等、ルネッサンス式古典様式とも重なり合う、古代ローマ建築様式から引き出された基準に従って、建設されたのでした。
特に興味深いのは、会議場「パラッゾ・デイ・コングレッシ」、ローマ文明博物館、そして「四角いコロッセオ」として知られる労働文明宮などで、これらは古典建築様式を抽象的にとりいれたことで、エウルの超現実的で形而上学的な雰囲気をつくり、広々とした並木道やゆったりとしたスペースで配置されている建物からもそれらを感知することができます。

モンテマルティーニ博物館Centrale Montemartini



モンテマルティーニ美術館は、ローマで古代と現在の両立を最も独自性豊かで意表をつく手法で実現した代表例です。カピトリーニ美術館所蔵品からきた古代彫像コレクションが、1912年開設のローマ最初の公共電力発電所内に展示されています。この発電所はヴァティカン公国旗を掲げるという巧みな策略のおかげで第二次大戦中にも爆撃を避けて唯一残った発電所です。機械室の中には四百以上にのぼるギリシャの神々や英雄、古代ローマの人物などの彫像がかってはタービンの騒音がすさまじかった変圧器や発電機の間に混在して配置されており、かくも見事な超現実的効果を創り上げています。完璧に修復された建物内(建築考古学修復上の傑作例の一つ)の展示室をめぐっていくと、時間を忘れたかのように光り輝く彫像の大理石と、発電所の機械が発信する現代のエネルギー間のダイナミックな関係が感じられ、あたかも見物者の興味をひくよう競い合っているかのようです。有名な「トーガを着たバルベリーニ像」や「小アグリッピーナ像」、頭部のない女人像「シンマチの勝利」そしてソシアのアポロ神殿からの一連の彫刻作品などは必見です。
一味違った夕べのためのアドバイス:ボルゲーゼ公園内にある「シルヴァーノ・トティ座」のオープンシアターでの観劇。所在地:アクア・フェリクス広場Piazza Aqua Felix。ロンドンのグローブ座をモデルにつくられた劇場で着席3000席まで収容可能。

ボルゲーゼ絵画館Galleria Borghese



ローマっ子に最も愛されているボルゲーゼ公園の豊かな緑の中にあるボルゲーゼ絵画館は、芸術作品の宝庫であり、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の収集活動を集大成したものです。1600年初頭に叔父の法王パオロ5世から与えられた郊外所有地に自らのコレクションを所蔵するためこのヴィッラを建設させたのでした。
空間を最高の形で活用するため、絵画館内部に公園や周囲の戸外の印象を持ち込むことでローマの特色の一つである芸術と自然の幸せな融合をつくりだしています。ヴァティカン美術館と同様にここでも「容器」と「中身」がそれぞれ同等の価値を競っています。個々の作品の芸術価値が、その展示室の立派な装飾によりさらに高められているのです。
ボルゲーゼ絵画館はプライベートコレクションとして誕生たため、作品やその展示方法は、美術史上の時代や主題などを基準としているわけではなくむしろ、かってのオーナーたちの好みや本能を反映しています。若きジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって枢機卿のためにつくられた彫刻の作品群(「エネア」「プロセルピーナ」「アポロとダフネ」「ダヴィデ」)はあたかも我々にこれらの出来事に参画せよと誘っているかのようです。ティツィアーノの「聖愛と俗愛」、カラヴァッジョの傑作、そしてカノーヴァの代表作であるナポレオンの愛妹を描いた「パオリーナ・ボルゲーゼの肖像」。ボルゲーゼ卿は才能ある人材発掘者として、また望む作品を取得するためには手段を選ばなかったことでも有名です。ペルージャの教会からラファエッロ作キリスト降架図をこっそり盗ませたこともあれば、他の枢機卿から委嘱された絵画であるため譲ることを望まなかった画家ドメニキーノを投獄させることなども躊躇せずにやってのけたのでした。

カタコンベ Catacombe



古代アッピア街道のカタコンベを見学すると、ローマにおけるキリスト教起源に遡り、そのアイデンティティの原点の一つを発見することができます。カタコンベは初期キリスト教徒の共同地下墓地であり、死者を市街居住地に埋葬することが禁じられていた古い習慣を尊重し、市の城壁外に置かれています。
トウーフォtufoと呼ばれる石(かなりもろい火山岩で空気中の酸素に接触すると硬くなる石)の地層を掘ってできた何層もの層でできています。死者は布に包まれて、壁に掘られた穴に安置されており外から、経済状況に応じてテラコッタあるいは大理石の板により封じられています。
非常に貴重な土地を最大限利用する必要性のため、地下に何層にもわたって形成されていることに注目してください。ここでは通常の考古学的遺跡とは逆の構造となっています。すなわち、歴史的に一番古い層は一番上の層、すなわち土壌真下の層であり、その後、その下の深い部分を掘って段々と詰め込んでいったのでした。
かっては、キリスト教迫害の時代において初期キリスト教徒をカタコンベの中に隠していたという話がありましたが、実際には墓場としてのみ、そして聖人や殉教者の墓にまつわる信仰儀式にのみ利用されていました。フレスコ画や墓碑上の銘などには、カタコンベは死者が永遠の命へと再び目覚める前の休息の場所であり、その変換の地であると認識されていたことが示されており、死者の永久的住まいとされていた異教徒の古墳とは対比を示しています。別のカタコンベの見学を希望される場合は古代アッピア街道の歩道は重要なカタコンベを徒歩で容易に行くことができます。

古代アッピア街道Appia Antica
アッピア旧街道の今も残る玄武岩の石畳の道を散策することはローマ滞在の理想的な締めくくりとなり、比類のない自然環境の中での歴史的記憶に耳を傾けるいい機会となります。
執政官街道の中で最も古いこのアッピア旧街道(紀元前4世紀)は道路網の構築こそが世界を手中に収め、支配する方法であると認識していたローマ人の実務的な天才的能力の重要な証人となっています。広い直線道路により軍隊を迅速かつ効率よく移動させることを可能とし、さらに交易活動を容易にしたのでした。
これらの街道建設にあたっては、古代ローマ人は地域のもともとの自然に従うのではなく、沼地の灌漑を行い、橋を建設し、丘を切り取ることで土地を改良しました。財産調査官アッピオ・クラウディオ・チエーコが実現しその名前のつけられた「レジーナ・ヴィアルム(アッピア街道の別名)」は南方向に伸び、最終的には東洋への港であるブリンディシまで延長されました。様々な素材を幾層にもわたり積み上げて造られた古代の行程を歩んでいくと、ニ方向通行を可能とするに十分な横幅を持ち、徒歩で旅をする人々のために広い歩道が設けられていたことを体験できます。
死者慰霊碑の遺跡の上に交互に植えられている松と糸杉の長い並木、そして遠くに見えるアルバーニ丘陵など現在の落ち着いた静寂さを前にすると、玄武岩の石畳に刻まれた馬車の車輪跡により思い起こさせられる、この街道を活気づけたであろう人々や乗り物の往来がなおさらに遠い出来事のように感じさせられます。
とはいえ、このローマでの滞在を通して、過去と現在の間の距離はおそらく縮まり、そして、自分自身の中に少しとりいれてローマを後にすることができるでしょう。

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